東京地方裁判所 平成12年(ワ)10896号 判決
原告 萩生田一成
右訴訟代理人弁護士 森宗一
被告 株式会社三和銀行
右代表者代表取締役 室町鐘緒
右訴訟代理人弁護士 小沢征行
同 秋山泰夫
同 小野孝明
同 安部智也
同 御子柴一彦
同 上野和哉
同 山崎篤士
同 上枝賢太郎
同 徳田琢
同 平賀敏秋
右訴訟復代理人弁護士 神原宏尚
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、二三〇万円及びこれに対する平成一二年六月八日から支払済みまで、年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告が、被告に対し、預金二三〇万円と訴状送達の日の翌日である平成一二年六月八日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求めた事件である。
一 争いのない事実
1 原告は、被告の船堀支店(所在地・東京都江戸川区船堀三丁目五番七号)に貯蓄預金口座(以下「本件口座」という。)を有している。
2 平成一二年四月一七日時点で、本件口座には少なくとも二三〇万円の預金があった。
3 しかし、同月二四日、原告が被告船堀支店に確認したところ、同支店は、次のとおり、本件口座から合計二三〇万円の支払(以下「本件各支払」という。)をしたということであった。
(一) 平成一二年四月一八日、被告横浜支店で九〇万円
(二) 右同日、被告船堀支店で一四〇万円
4 右の支払の際に、被告横浜支店及び船堀支店にそれぞれ提出された払戻請求書(乙一、二、以下「本件各払戻請求書」という。)に押印された原告名下の印影と、本件口座の届出印鑑(乙三、以下「本件届出印鑑」という。)の印影とは、酷似している。
二 争点(被告の弁済の効力)
1 被告の主張
(一) 債権の準占有者に対する弁済
本件各払戻請求書による払戻請求に対し、被告担当者は、本件各払戻請求書の原告名下の印影と本件届出印鑑の印影とをいわゆる平面照合の方法により照合したが、相違ないものと認められた。そして、右の払戻請求者が無権利者であることを疑わせるような特段の事情はなかったから、本件各支払は、債権の準占有者に対する弁済として有効である。
(二) 貯蓄預金規定の適用
本件口座に適用される原、被告間の貯蓄預金規定には、<1>通帳を失ったときには、直ちに書面によって被告船堀支店に届け出るべきで、その届出前に生じた損害について被告は責任を負わない、<2>被告が払戻請求書に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取り扱った場合、払戻請求書について偽造、変造その他の事故があっても、そのために生じた損害については、被告は責任を負わない旨の規定がある。そして、被告の担当者は、本件各払戻請求書の印影と本件届出印鑑の印影とを相当の注意をもって照合した結果、相違ないものと認めたし、原告による通帳盗難の届出は、本件各支払の後であった。
(三) 後記原告の主張について
(1) 通帳に届出印の印影(いわゆる副印鑑)を押印する副印鑑制度は、顧客がどの印鑑であったかすぐに分かるようにし、被告の迅速な事務処理を可能にする合理的制度である。また、副印鑑制度の廃止には、預金規定の改訂が必要で、これには顧客の同意が必要であるため、即時に廃止することはできない。
(2) 副印鑑制度の廃止について、過渡期の状況にあるとき、厳格に本人確認をして、これに応じない顧客の払戻請求を拒否すれば、預金規定によって迅速な払戻しをすべき銀行の義務に違反することになる。
2 原告の主張
(一) 信義則違反
預金通帳を盗んで、副印鑑をパソコンのスキャナーなどで複製し、銀行窓口で引き出す事件が多発急増している。そのため、被告は、遅くとも、平成一二年四月一八日までに、<1>副印鑑制度を廃止する、<2>預金者に右の状況を説明して、副印鑑を押印しない通帳を選択できるようにする、<3>既に通帳を発行している預金者にも、右の状況を説明して副印鑑を押印しない通帳に切り替える機会を与える、<4>銀行内にポスターを掲示し、又は各預金者に通知するなどして右の状況を預金者に伝える義務があったが、被告は、いずれの措置も講じていないから、信義則上、債権の準占有者に対する弁済がされたとして免責を主張することは許されない。
(二) 過失
被告担当者は、本件各払戻請求書による払戻しの請求者に対し、<1>本人か代理人かを尋ねる、<2>仮に本人と答えた場合に、運転免許証等の提示を求める、<3>再度の押印を求めるなどの義務があったが、これを怠った。
第三争点に対する判断
一 証拠(甲一三、原告本人)によれば、原告は、自動車の助手席の下に本件口座の預金通帳(以下「本件通帳」という。)を保管していたが、平成一二年四月一八日までに、何者かによって本件通帳が窃取されたこと、届出印鑑自体は窃取されていないことが認められるから、本件通帳の副印鑑を利用して、本件各払戻請求書が偽造されたことが推認される。
二 そして、本件各払戻請求書の原告名下の印影が、本件届出印鑑の印影と酷似していることは当事者間に争いがなく、実際、本件各払戻請求書(乙一、二)の原告名下の印影と本件届出印鑑の印影(乙三)とを比べると極めて良く似ているから、照合事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って熟視することにより発見し得る相違点があるとは認められない。そのため、被告担当者において、右払戻請求書が偽造されたことを発見できなかったことに過失はないというべきである。
三 そこで、原告の信義則違反の主張(前記第二、二2(一))について検討する。
1 証拠(甲二ないし四、一一、一二)によれば、平成一二年四月二六日の日経金融新聞に、偽造した印鑑を使って銀行口座から不正に現金を引き出す犯罪が急増し、平成一一年度は百件以上と前年度の一・五倍に達したが、その大半は、副印鑑からパソコンなどで印鑑を複製して預金を引き出す事例で、平成一二年六月に副印鑑を廃止する銀行(スルガ銀行)もあり、都市銀行にとっても対応策が急務になっているとの報道がされたこと、同年五月一五日の日本経済新聞にも、東洋信託銀行が、副印鑑制度を同年六月に廃止するが、その背景には、右の事例が増えていることがあるとの報道がされたこと、同月三〇日の読売新聞にも、副印鑑をパソコンのスキャナーなどで複製し、窓口で現金を引き出す事件が急増し、大手都市銀行六行だけでも平成一一年一年間で三〇〇から四〇〇件程度の被害が出たため、東京三菱銀行では平成一一年から副印鑑なしの通帳に切り替え、住友銀行及びさくら銀行でも既に副印鑑制度を廃止し、富士銀行でも平成一二年の年内に廃止する方針であるとの報道がされたこと、同年一〇月一二日のNHKのテレビニュースにおいても、右のような被害の実態と対応についての報道がされたことが認められる。
2 そのため、平成一二年四月一八日の時点では、被告においても、副印鑑制度の廃止について検討すべき状況にあったということはできる(甲一四号証によれば、その後、同年一一月一日時点では、被告新橋支店においては、副印鑑制度を廃止したことがうかがわれる。)。
しかし、右の1で認定した事実自体、平成一二年四月一八日の時点では、いまだ金融機関側の対応も、副印鑑制度の廃止が大勢となっていたというわけではないことを示しているし、現に、証拠(甲四)によれば、右読売新聞では、「通帳に印影がないと、どの印鑑を使ったか分からなくなる」といった預金者の要望も強く、各銀行では、預金者にビラを配布するなど注意を呼びかけながら、対応を検討している旨の記載もされていることが認められるから、平成一二年四月時点では、なお過渡期の状況にあり、被告において、直ちに副印鑑制度の廃止をすべき義務があったということまではできない。
3 また、原告のように既に副印鑑を押印した通帳を所持している者については、前記のような不正な預金引出しの事例を説明した上、副印鑑のない通帳への切替えの機会を確保するのが妥当であったということもできる。
しかし、右2のとおり、右事例の急増が平成一一年にあって、平成一二年四月一八日の時点ではいまだ各銀行において対応を検討していた時期であったことからすると、同日の時点で、右のような通帳の切替えの機会の確保が、直ちに被告の預金者に対する義務であって、それに違反した場合には、民法四七八条による弁済の効果を主張できないということまでは困難である。
4 さらに、平成一一年に前記のような不正な預金引出しの急増があったこと、また、証拠(甲一一、原告本人)によると、通帳を窃取されることが直ちに預金の不正な引出しにつながるおそれがあるとの一般的認識は低かったことが認められることからすると、平成一二年には、被告において、右のような不正な預金引出しの急増の事態を各預金者に通知し、銀行内にポスターを掲示するなどして、警戒を呼びかける行動をとったほうが妥当であったということはできる。
しかし、もともと銀行が呼びかけなくとも窃盗を防ぐよう注意すべきことは一般的な認識である上、右のような呼びかけによって、果たして本件各支払を防ぐことができたか疑問があることを考慮すると、右のような呼びかけを行うことが法的な義務であるということも困難で、その義務に違反したからといって、直ちに民法四七八条による弁済効果が主張できなくなるということはできない。
なお、証拠(甲一四)によれば、被告の発行する通帳には、現在も通帳と印鑑を別々に保管するようにという注意書が記載されていることが認められるが、右の注意書は、通帳と印鑑を別々に保管すれば十分であるということまで述べているものではなく、被告において預金者に誤った認識を知らせているということはできない。
5 したがって、原告の信義則違反の主張は理由がない。
四 次に、原告の過失の主張(前記第二、二2(二))について検討する。
1 原告の主張は、前記三1のような不正な預金引出しの事例が急増したことをとらえ、銀行の照合事務担当者に対し、印影の照合以外の別の行為義務を課するものであると解される。
2 しかし、右の義務を課することは、同時に、預金者に対しても新たな義務(<1>本人か代理人かを答える義務、<2>本人と答えた場合には、運転免許証等を提示すべき義務、<3>再度の押印をすべき義務)を課し、その義務を履行しない場合には、預金の払戻しを受けられないということを意味する。
だが、前記のような不正な預金引出しの事例が急増したという事態を前提にしても、預金者に対し、右のような義務を課する法的な根拠があるのか疑問があり、かえって、その義務の不履行を理由にして銀行が迅速な預金払戻しを拒否した場合には、銀行の債務不履行となるとも解されることを考慮すると、直ちに、銀行の照合事務担当者に原告主張の義務があるということは困難である。
3 したがって、原告の過失の主張は理由がない。
五 結論
以上の検討によれば、本件各支払は、弁済として有効であるから、原告の被告に対する請求は、理由がない。
(裁判官 都築政則)